1922年
(大正11年)

大阪外国語学校が現在の大阪市天王寺区上本町8丁目に創設される。

  • 1921年(大正10年)12月9日林蝶子女史が海運業で財を成した夫の遺産から文部省に寄付した百万円の資金をもとに、大阪外国語学校が設立された(文部省による認可)。
  • 授業開始は1922年(大正11年)4月17日、開校式は11月11日。
  • 同年、校友会誌「咲耶」創刊号の発行。
1944年
(昭和19年)

大阪外事専門学校と改称される。

  • 当時の語科は、支邦、蒙古、マライ、インド、イスパニア、アラビア、ドイツ、フランス、ロシヤ、英米の10語科。
1945年
(昭和20年)3月
大阪大空襲で書庫を除き上八校舎の大部分を焼失。
1946年
(昭和21年)2月

高槻校舎に移転。

  • 以降11年間、高槻、上八両校舎での分散授業が続く。昭和32年に上八に完全復帰する。
1946年
(昭和21年)4月
女子学生の受入開始。
1949年
(昭和24年)5月

新制国立大阪外国語大学として発足。

  • 中国、蒙古、インドネシア、インド、ビルマ、タイ、アラビア、英、ドイツ、フランス、イスパニア、ロシアの12語学科で再スタート。
  • 設置要綱の中の目的および使命は、「本大学は諸外国の言語とそれを基盤とする文化についてその理論と実際を深く教授研究し国際的文化活動に従事する人材を育成すると共に言語、文化に関する学術研究の進歩に貢献せんとするものである。」となっている。
1951年
(昭和26年)5月
夜間の別科開設。
1965年
(昭和40年)4月
外国語学部第2部設置。
1969年
(昭和44年)4月
大学院外国語学研究科(修士課程)設置。
1979年
(昭和54年)9月
箕面市粟生間谷に移転(上八の跡地は後に大阪国際交流センターとなる)
1991年
(平成3年)4月
留学生日本語教育センター(現・日本語日本文化教育センター)を併設。
1997年
(平成9年)4月
大学院言語社会研究科(博士課程)設置。
2004年
(平成16年)4月
国立大学法人大阪外国語大学となる。
2007年
(平成19年)10月

国立大学法人大阪大学と統合し、大阪大学外国語学部となる。

  • 外国語学部入学定員は580名で、文科系のなかでは最大。
  • 旧大阪外国語大学のキャンパスは大阪大学箕面キャンパスとなり、外国語学部の学生は、箕面と豊中で受講することになった。
  • 外国語学部外国語学科は、次の25専攻(語)からなる。
    中国、朝鮮、モンゴル、インドネシア、フィリピン、タイ、ベトナム、ビルマ、ヒンディー、ウルドゥー、アラビア、ペルシア、トルコ、スワヒリ、ロシア、ハンガリー、デンマーク、スウェーデン、ドイツ、英、フランス、イタリア、スペイン、ポルトガル、日本。
2021年
(令和3年)4月
箕面市船場東に移転。

咲耶会の名称の由来

第二次世界大戦においての敗戦後の昭和24年に新制大阪外国語大学が設置され、それまでの大阪外国語学校および大阪外事専門学校の同窓会が大学同窓会となった。
昭和56年この同窓会の愛称が募集され46種の応募があった。当時の伊地知学長、司馬遼太郎、陳瞬臣氏らに選考を依頼し、咲耶会が最終的に選ばれた。この名称はかって大阪外国語学校の校友会の会誌名でもあり、古今和歌集仮名序から取ったものである。(大阪外国語大学70年史参照)
それは仁徳天皇の治世の繁栄を願って王仁が詠んだものとされている難波津の歌と呼ばれている次の古歌によるものである。

難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと咲くやこの花

この歌を万葉仮名で墨書した木簡が観音寺遺跡から出土しているが、それには咲くやは左久矢と記されている。これは天武朝(在位673~686年)或いはそれ以前のものとされている。

なお、咲耶会の会誌 咲耶 の題字は(昭和56年4月発行分以来)司馬遼太郎氏の筆によるものである。