外語マガジンsakuya

「研究者として生きる」

10代前半に感じたアフリカ報道の嘘っぽさ。在学中に現地で感じたもどかしさ。
アフリカに対する想いに導かれながら、今なお走り続ける。
そこには専攻言語と地域をとことんまで突き詰める外国語学部卒業生の姿があった。

竹村景子プロフィール

竹村 景子
アラビア語学科(スワヒリ語専攻)・1986-1990在学。

スワヒリ語専攻1期生。学部在学中にアフリカへ行ったことをきっかけに、院進学を決意。修士論文を書き上げた後、大阪外国語大学の教員に。専門はアフリカ全般、社会言語学・スワヒリ語方言研究・アフリカのジェンダー問題・紛争問題など多岐にわたる。中学時代は走幅跳の選手として全国大会に出場したことも。2015年10月より大阪大学外国語学部副学部長。2児の母でもある。

インタビュアー:菊池藍(夜/中国語 2011年卒)

きっかけ

まずはじめに、スワヒリ語を選んだのは何故ですか?
それは話せば長いことになるよ。あんまり学生には言ったことないかもしれん。そもそも私の思い通りに人生が進んでたら、外大には来てないです。
?!…それはどういうことでしょうか。
高校までは陸上競技で身を立てたいと思っていたんです。中学時代も全国大会に出ていたし、インターハイに出たら、筑波大学に進学する予定でした。両親が教師をやっていたので、体育の先生になって、オリンピック選手を育てるのが夢だったんです。ところが、腰に先天性の異常が見つかってドクターストップが出たことと、運悪くインターハイも予選敗退したことで、私の青春と夢は終わりました。
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インターハイ
高校で陸上は引退するって、お医者さんと約束してたんです。でも、インターハイに出場したら、その約束は反故にしようかと密かに思っていました(笑)。ところが、下馬評では出場確実と言われていたインターハイに出られなかったんです。直前の近畿大会(予選)で、めっっっっちゃ調子が良くて(笑)。調子が良いときって、助走が合わなくなるんですよね。スピードに乗りすぎて助走が合わなくなって、全部ファール。そこで私の青春は終わりました…。

そうだったんですね…。
これからの人生どうしようかな、と。次に好きな教科は何やろって考えて、国語の先生にしようとしたのね。で、そんなときに知人から大阪外大にスワヒリ語専攻ができるという噂を聞いて、ひらめいた。
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阪大文学部志望
国語の先生になろうと思ったとき、実は阪大文学部を志望してたんです。そんなとき、陸上部の先輩のお兄さんが外大アラビア語専攻だと分かって。当時、スワヒリ語はアラビア語学科の副専攻語だったのが、1986 年から専攻語になるという噂を教えてもらったんです。12月の土壇場で進路変更をしたから、高校の担任団には「頼むから外大に変えんねんやったらせめて英語とか中国語にしてくれへん?」って言われました。

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英語はもういい
英語は小学5年生から家庭教師の先生に習っていて、中1のときには関係代名詞が終わっていました。神戸市外大の英語科に通ってたお嬢さんが先生で、発音がめっちゃきれいで教え方も上手やったんです。一方学校の先生はと言えば、じいさんやし、発音が悪くて「map」を「ミャップ」って言うから、子どもたちからミャップって呼ばれてたくらいで…そんなんやったから、英語の授業は全然面白いと思ったことがなくて。日本の英語教育にも疑問を感じてたんで「英語はもういい」って担任団には言ってました(笑)。

ひらめいた、とは。
実は、私がローティーンの頃に「愛は地球を救う」っていう番組が始まったんですけど、「めっっちゃ嘘っぽいな!」と思ってたんですよ。あまのじゃくなガキやったんで。インタビュー風景 アフリカの人は飢えてるか、戦争で死んでるか、アパルトヘイトで差別されてるか、そうか思たらアフリカは野生の王国で動物がぎょうさんおるとか、そんな報道しかなくて。私らと同じように笑ったり泣いたり怒ったり悲しんだりしている人がおるはずやのに、それが見えてこぉへんな~って。いつか自分の目で見たいな、と密かに思ってたんです。

アフリカに対する興味がそこで湧いていたんですね。
だからスワヒリ語っていう言語がアフリカで話されているというのは知ってました。知ってたけど、そのときは非常に浅はかだったので、スワヒリ語を勉強したらアフリカ大陸全体の人と話ができると思ってました。
なるほど。
そこはまぁ、素人でしたね。どうせアフリカに行くなら、植民地時代の旧宗主国語の英語とかフランス語とかじゃなくて、現地語で話した方が向こうの人が気持ちがええやろと思って。「これしかない!絶対マスターしよう!」と思いました。

学生時代

インタビュー風景
そして外大に入ったら…。
そしたら…、変な人ばっかりでした!
何が一番衝撃的でしたか?
え、それはやっぱり、最初のオリエンテーション。主任だった宮本正興先生(私の恩師で本当に素晴らしい先生です)が、海のものとも山のものとも分からんで不安に思っているいたいけな私たち(しかも高校卒業したばっかり)に向けて、「皆さん、アフリカの毒を喰らわば皿までですからね」って言わはって!
どういう意味ですか!?
「毒を喰らわば皿まで」って言い回しがあるでしょ。
知らないです…汗 一度足を踏み入れたならば、ってことですか?
そうそう、やるならとことんやれ!ってことなんやけど(*1)
*1 後から調べてみたところ「いったん悪に手を染めたからには、最後まで悪に徹しよう」という意味でした。もっと過激!
最初の段階でそれを言わはったんですね。
そう、何言うてんのかなこの人、と思って。
ははは(笑)
あともう1人の恩師、中島久先生は、スワヒリ語のことわざで「道を失うことは、すなわち道を知ることだ」と言わはって。
インタビュー風景
ちなみにスワヒリ語では何て言うんですか?
「Kupotea njia ndiko kujua njia.」(*2)です。それも衝撃的でね。道を失ったんか!間違うたんか私らは!と思って。
*2「クポテア ンジア ンディコ クジュア ンジア」非スワヒリ語専攻の皆さまへ。スワヒリ語は後ろから2音目にアクセントがくるので「テ・ジ・ディ・ジュ・ジ」を強めて読んでください。お察しの通りンジアが道です
すでに!?って感じですね(笑)
「何の因果か君たちはこんなところにきて、まあ間違ったかもしれないけれど。そのうち、ちゃんと道はみつかるから、うん。」みたいなこと言わはって。
めっちゃ不安になる!
どうしようこんな変なとこ来てもうて…と思ったね。でも、その後はほんまにすごい楽しかった。 1期生やったしね、全員変やったから。よく宮本先生に「君たちはバンドを組んで、このキャンパスの中を練り歩いてますね…」って言われたんやけど、「バンド」っていうのは人類学の用語では「一緒になって動く小集団」を指すから、「ギャザリングバンド」みたいな「狩猟採集民」みたいな。同期16人全員であっち行ったりこっち行ったりしてたわ…。「スワヒリ語であだ名つけよう!」とか言ってね、スワヒリ語でMr.って意味の「ブヮナ」を習ったときに、ブヮナヤマモトとかブヮナコジマとかいって呼び合ってたんやけど、だんだんそのうち面倒くさくなるやん。それで結局、違うあだ名になっていって。ところがヤマモトくんだけ、「ブヮナ」だけが残ったのよね。彼のあだ名は未だに「ブヮナ」やねん(笑)。

はじめてのアフリカ

そういえば先生は、大学時代に留学はされましたか?
行ってないねん。それが、一度も行ってない!旅行には行きました。3年生の夏休みに、丸2ヶ月くらいケニアとタンザニアに。それが初めてのアフリカでした。
実際に行ってみてどうでしたか?
んーやっぱり色々衝撃を受けることが多くって。机上の勉強でわかった気になっていたけど全然わかってなかったことが色々あるよなーっていう。スラムに連れて行ってもらったりしたんだけど、結構危ない目にあって。
何があったんですか。
ネックレスを引きちぎられました。でもそれは、現地の人と一緒やっていう安心と油断が自分にはあったからで。見えるようなところにそんなのしてた私が悪いって後で反省したんだけど。それから私は社会言語学をテーマに卒論を書いていたので、それまでケニアの人は普通にスワヒリ語喋ってて、みんなスワヒリ語大事にしてるんちゃうかな、と思ってたんですよね。でもホテルとか割とエリートがいるようなところに行くと、私がスワヒリ語喋っても向こうは頑なに英語で喋ってきたり、私もめっちゃ頑なになって、向こうは英語、私はスワヒリ語みたいな。
両方譲らないという。
そう(笑)。スワヒリ語そのものに関しても、3年生の夏頃やったからある程度わかってると思っててんけど、いざ、腹が立ってるときに「私は怒っています」って日本語では言わないでしょ?「何してんのよ!」とか「やめてよ!」とかいうそのセリフがとっさには出てこなくて。結局「私は怒っています!!」としか言えなくて、「ちゃうわ…、これではアカン。」と思って(笑)

変化-院生時代-

アフリカに行って、何かが変わったんですね。
アフリカに行くまでは、卒業したら教員採用試験受けて国語の先生になろうと思ってました。だけど、ケニア・タンザニアに行って、これではまだまだ勉強が足らん、と思って。『大学院』っていう選択肢を考え始めたのはそのとき。4年間で終わらすのはもったいないかもしれないなって。
大学院に行くことを決めたのは?
インタビュー風景
卒論を書いている途中で「全然わかってない私がいる」「今ここでアフリカと離れるのは私にとって得策ではない」というのがあって。このままではきっと満足いく結論は書き上げられないから、 もうちょっと勉強したい。納得の行く論文を書けるまで勉強したいなっていう。それで院に入って、タンザニアの言語政策について修論を書きました。
院に入ってからはアフリカに何度か行かれたんですか?
それが、院に入ってから一度も行ってなくて。院行ったら留学したいと思ってたんですけど、上から「早く出ろ!」という命令が出てまして。というのも、当時の大阪外大ではアフリカ研究の教員を養成しなくてはいけなかったんですね。私、実は修論書いてすぐ外大の教員になったんです。
そうだったんですか!外大の教員になるって決めたのはいつだったんですか?
決めたというか…、主任教授だった宮本正興先生から「君は教えることになってもらわないと困るから、そのつもりでいてね」と言われて「どういうこと?」と思ってた。
強引ですね…!(笑)
当時大変だったのは、アフリカ研究をやっている人たちが一堂に会する学会で、修士2年で発表をしたこと。今はそうでもないけど昔は珍しくって、若い女の子なんて少なかったのですごく緊張した。そういう学会で発表したこととか、論文をとにかく書きなさいって言われて、修論以外の論文を書かされていたのも、あとからよくよく考えてみたら、教員採用のためやったんよね。業績審査で論文が修論しかない、っていうのは非常に問題があるから。
業績づくりのためだったっていうことですね。
そうそうそう!なんかその時は「そ、そういうもんか…」と思って言われるがまま書いてたけど、あとから思ったら「そういうことやったんか!」っていう。

大学教員に

そして大学院を卒業してすぐに教員になられたんですね。
まずは非常勤で入って、教員公募が出て応募したのはその年の7月くらいやったかな。だから採用されたのは25歳です。日本ではうち(大阪外大)しかスワヒリ語を専攻で教えてなかったので、まあ他に応募してくる人いないやろうっていうのはあったと思うけど「もうこんな就職(採用)は二度とない」と言われました。全部先生のお膳立てがあってのことやったわけです。
学生と間違われるくらいの若さですよね。
昔は外大(箕面キャンパス)で入試をやっていたんで、入試の監督をしていて「受験生立ち入り禁止」とかなってるところに行こうとすると、「はいはい!入っちゃダメ!」とか守衛さんにとめられて。腕章ちゃんとつけてるのに…ってことが何度かありました。最近はさすがにないけどな!(笑)
大学の教員になってからは具体的にどんな仕事をされていたんですか?
基本は教えること。専攻語実習の授業と、講師に昇任してからは卒論のゼミも持ったし、講義をしたり。あとは委員会や、自分の研究で学会発表したりとかもあります。
専門は社会言語学になるんでしょうか。
インタビュー風景
もちろん最初はね、社会言語学でやってたんだけど、それと同時に方言研究もするようになって。さらに宮本先生が「うちはアフリカ大陸をかかえている」と。ここはスワヒリ語だけ教えてれば良い専攻じゃないって言うのね。やっぱり日本で唯一学部でアフリカ地域研究を教授してる大学やから、学生のいろんな興味・関心に応えられるような、それを刺激するような授業ができるようにならなあかんと。「私は言語学が専攻やからアフリカの言語学のことしか教えません」とかそんな狭いこと言うとるようでは日本のアフリカ教育は発展しないから、だからどんな分野にも対応できるように勉強しときなさいって言われて、「はぁ。」って(笑)。で、やってるうちに自分の専門が何か分からなくなったっていう。
なるほど(笑)
だから今はジェンダーもやってるし、ちょっと紛争問題について喋ってくれって言われたら紛争問題も喋るし、アパルトヘイトのことなんかも言うし。今『アフリカの文化と社会』について教える共通教育の授業を持ってるんですけど、年度によっては200人超える授業になっているんです。すごい大変なんですが、理系の学生さんとかも真剣に聞いてくれてるので、それはとてもありがたいことだと思っています。

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