外語マガジンsakuya

「『好き』を極めて生きる」

国連をめざして語学の道へ進み、留学に挑もうとした矢先
大学3年生の身で突然背負うことになった借金。
放心状態の彼女の頭に浮かんだのは「“安定”とは何だろう?」という問いだった。

大林由佳プロフィール

大林 由佳
国際文化学科国際関係専攻フランス語・2007-2012在学。

1988年生まれ。兵庫県香美町出身。高校時代の恩師の言葉で国連を志すようになり、大阪外大へ入学。留学準備中に斡旋会社が倒産し、借金を背負ったことが転機となり、起業に興味を持つ。卒業後、休学期間にインターンシップでお世話になった岡山県の西粟倉村に移住。当時92歳の師匠に弟子入りし、古くからの搾油方法を学ぶ。現在はablabo.代表“油姫”を名乗り、搾油・商品開発・販売などを手掛ける。

インタビュアー:菊池藍(夜/中国語 2011年卒)
撮影協力:並川嘉文(中国語 1999年卒)

憧れの存在

国際関係(*1)を選んだ理由を教えてください。
国連高等難民弁務官の緒方貞子さんに憧れていて。UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)のトップだった女性で、国際社会から難民を救おうとものすごく尽力された人です。緒方貞子さんみたいになりたいっていうのが一番のきっかけでしたね。そこから国連に入りたい、と思うようになりました。
*1 国際関係専攻、通称こっかん。合併後、旧外大専攻で唯一法学部に吸収された。外大のなかでも頭が良く、意識高い学生が揃っていた(イメージ)。講座内でディスカッションや討論を頻繁に実施していたことから極一部から“ディベート集団”と呼ばれていた。
緒方さんのことを知ったのは高校時代ですか?
そうですね。高校のときの恩師が「今こうやって普通に学校に通って、朝昼晩ご飯にも困らない我々は、やっぱり世界に対してやらなきゃいけないことがあるんじゃないか」という話を授業でされたことがあって、それにすごく感銘を受けたんです。「なんかやらなきゃ!」って気分になって。そこからいろいろ調べていたら緒方貞子さんに行き着いて、気になっていろんな本を買っては読んでいました。
インタビュー風景
国関の講義は積極的に受講するタイプでしたか?
いや、最低限ですね!(笑)入学してすぐの説明会で集まったときに、とある教授に出鼻をくじかれて。「君たちねえ、国関に入っていろいろ勉強して、国際社会に貢献しようと思っているかもしれないけど、そんなの無駄だからね。学問はあくまで学問。現場はまた別だ。」と(苦笑)。でも、国連に行きたいって気持ちは変わらなかったです。やれば何とかなるんじゃない?って思ってた。緒方貞子さんっていう目標の人がいたから強かったのかもしれない。例え先生がそう言ったとしても、信念持って実際にやっている人がいる以上、やれば何とかなる。自分次第!って思っていました。

突然の留学取り消し

なるほど。大林さんは5年在学ですが、1年は何をされていたんでしょうか。
3年の後期に1年間休学してインターンシップをしていたんですが、別にインターンをするために休学したわけじゃないんですよ。外大だったし、先生に何を言われようとも国連をめざす道には乗りたいなって思ってたから。フランス語の授業も嫌いだったんだけど(笑)、喋れるようになんなきゃな、と思って留学準備をしていました。英語もフランス語もできるカナダのモントリオールに行こうと思って。プランも組んで、生協じゃなくて一般の留学斡旋企業で申し込みをしていたんですけど、一括で留学費が支払えないからローンを組んでいました。じゃああとはホストファミリーを見つけて、出発日を決めるだけだねってときに、その留学斡旋会社が倒産しちゃって。
ええ!?
でももう大学にも休学届を出していて。斡旋会社は倒産したけど、ローンを組んだ信販会社は私の代わりにすでに留学費用を支払っていたので、「あなたは留学には行けないけど、信販会社はお金払っちゃったから、ローンだけは返し続けてね」って言われて……「…あれ?」みたいな…(笑)。結構おっきなニュースになった問題で被害者が多すぎたので、一括裁判で決まってしまったんですよね。だからもう抗うこともできず。大学休んだけど、ローン返すために働くだけなのか…って。
ひどい…。
逆らいようがないですからね。もう潰れちゃったものはしょうがないし、どこに怒ったらいいのかもわかんないし。7、80万円かな…そんなにおっきいものじゃなかったんですけど、でも学生にしてみればおっきくて…。 インタビュー風景 それで、放心状態ですよね。授業に行くわけでもなくずっと無気力で。当時私はシェアハウスでフラ語の友だちと3人で住んでたんです。そのうちのひとりがインターンシップをすごく探していて。学生にインターンを紹介するNPO法人を見つけて、放心状態の私に紹介してくれたんです。で、よくわかんないけど、どうせ何もすることないならインターンくらいしてもいいかなって、そんな気持ちでそのNPOの門を叩いてみました。

インターンシップへ

何というNPO法人ですか?
NPO法人JAE(ジャイー)というところです。「なんでインターンシップしたいと思ったの?」って聞かれたときに、どうせなら面白いことしたいし、面白いことやってるところに行きたい。バイトとたいして変わらないようなインターンしたくないし、と答えました。そのときには自分で起業したいっていう思いがだんだん生まれていたので「起業の勉強ができるところがいい」とも伝えたんです。
なぜ起業したいと思うようになったんでしょうか。
私の実家がある兵庫県の香美町は、第二の夕張市って呼ばれてたくらいの財政難だったんです。いつ潰れてもおかしくないって言われていて。そんな私にとって“倒産”ってすごいおっきな転機だったんですね。まさか潰れると思っていない、梅田のど真ん中にオフィスを持ってた会社さえも潰れたし、“安定”って何だ?と思いました。うちは親が自営業でそんなに裕福な家庭じゃなかったんで、「公務員になれ」「大手企業に入れ」ってすごい言われてたんですよね。でもなんか親の言う“安定”って、公務員になるとか大企業に入ることじゃないんじゃないか?これからの時代を生きていくのに“安定”の概念がそもそもまったく違うんじゃないかと思って。そのときから、どうしたらこれから生きていけるんだろうって考えた結果、自分で仕事を持つのが実は一番強いんじゃないかなって思って。そこから起業にちょっとずつ目を向けるようになりました。
なるほど、そしてインターン先が決まったんですね。
はい。まさにこれから株式会社にしようとしているプロジェクトが岡山県にあるぞ、ということを知って。それが今私がいる場所に繋がっているんですけど、岡山県の西粟倉村というところです。

西粟倉村との出会い

すごく失礼ですがとても田舎っぽい感じがします!
インタビュー風景 めっちゃ田舎ですよ。でも高速道路の入り口が村内にあるので大阪から1時間30分くらいで着きます。流通はものすごく速くて、いわゆる閉鎖的な村ではないです。小泉首相時代の『平成の大合併』の流れで日本中の村々が市に合併していくなか、当時の村長が西粟倉村は合併せずに、このまま村として生きていきますっていう宣言をして。
かっこいい!
めっちゃかっこいいんですよ。でもそれには村に収益がないといけない。そこで林業に革命を起こし始めたんですね。その起点となる会社の立ち上げに関わるインターンシップだったんです。もともと林業には全く興味ないし、田舎も特に好きじゃなかったんですけど(笑)、これから会社を立ち上げる現場の近くにいたかったし、どうなっていくか分からないっていうスリルが面白そうだなって。
めったに見れるものじゃないですもんね。
そうですね。それで西粟倉・森の学校という会社に営業のインターン生として入りました。「何の営業しましょう!何売ればいいですか?」ってやる気満々で聞いたら、「いや売るもんないんだよね。ちょ、今売るもん作ってるから待って」って言われて(笑)。待ってって何だよっていう。
おもしろいですね(笑)
結局、西粟倉村の木材で作ったフローリングを、賃貸マンションに導入するための営業をすることになりました。でも無垢のフローリングって結構高級なイメージがあって、香りも質感も良いんですけど傷つきやすいんですよね。賃貸マンションは色んな人が住み替わって回転していくものなので、「賃貸マンションに無垢の床はありえない」とタブー視されていました。そこを冒そうぜっていう(笑)。
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すでに始まっているものに興味はない
私たちは実は2期目のインターンだったんです。1期の人たちは西粟倉村の別の会社(保育園や幼稚園向けの遊具を西粟倉の木材で作る)の営業代行をしていました。2期生もそれをするかって話になったときに、私ひねくれてたんですよね。「すでに始まっているものに興味はない」って(笑)。だからもっと別のことがやりたいですって社長に直々に言ったんです。そしたら、新しい無垢材フローリングのプロジェクトに参加させてもらえることになりました。
どうやって冒すんですか?
とりあえず営業に行きましょう、と(笑)。でもまだ始まったばかりのプロジェクトだったので、インターンシップの半年間はずっとマーケティングをしていました。それでインターン期間が終わっちゃって。終わったけどどうする?って社長に聞かれたとき「まだ私は何も成し遂げていないから終わらせたくないです」と答えたら、じゃあ業務委託っていう形にしようと。なので残り半年の休学期間は仕事としてお金をもらって営業をしていました。
どこに営業をしたんでしょうか。
大阪・京都の不動産屋さんの店舗です。大手ではなくて割と地元密着っぽいところを探して飛込みで。面倒見がよさそうで温厚そうな社長に出会ったら、“学生頑張ってます感”を出して、「あなたは私を応援しないとだめだよ」みたいな気分にさせるんです(笑)。でも基本的に人をナメてかかってるような人には、社会人のふりをしてナメられないようにやってました。
すごいですね…!それで何軒くらい回ったんですか?
1ヶ月50軒の目標を立てて回りました。前向きに話をしてくれるところもあったんですけど…すぐに結果は出なかったですね。でも、私が一生懸命撒いた種は、その一年後ぐらいにちゃんと芽が出て。「西粟倉の木でマンションリフォームしてみよう!」という話が出て、上司が「大林良かったね」と。すごく報われました。

就職活動はしない

そして休学期間が終わると、周りは就活モードですね。
まさにそうです(笑)でもすでに私はインターンでベンチャー企業を体験しちゃってるんですよね。その状態で合同企業説明会に行ったら、会場に向かう電車のなかで吐き気がしました(笑)。あぁ普通に就活できないんだな私って気づいたかな。
そのときは「起業するぞ!」とは思ってなかったんですか?
いつか起業したいとは思ってたんですけど、起業が最終目的になっちゃだめだな、あくまでも手段だな、と思ってました。だから「起業したい」じゃなくて、緒方さんと同じ最終目的にたどり着くためには、自分はどうやって生きていけばいいかなっていうことを考えていましたね。
その緒方さんと同じ目的地というのは、つまりどういうことなんでしょうか。
ありきたりですけど、いろんな人が笑って生きていける世の中を作ることじゃないかなって。インターンを経験して社会を見たときに、緒方さんみたいに難民支援・人道支援がやりたいっていう想いは、国連に行かなくても叶えられるんじゃないかなって思ったんです。自分なりの方法で、いつか繋がっていくと思うんですよね。
なるほど。卒業後はどうされたんですか。
卒論を書いている途中で、西粟倉・森の学校の社長(インターン時の上司)に「就職決まってないならうちにこないか」って誘っていただいて。もっと知りたい世界が西粟倉村と森の学校にはあるな、と思って就職を決めました。社長にもいつか起業したいっていう話はしていたので、起業に向けての準備期間だと思ってくれていいからという話もいただいて。
そこからは岡山が本拠地ですか?
はい、岡山に移住しました。就職して、まずカフェの店長の仕事をしたんです。西粟倉のファンを増やすために食べ物の拠点を作ろうということになって。でも、会社が厳しい時期に入ったこともあって、その年の11月に閉店してしまいました。時期尚早だったなってことで。私自身もカフェの店長をやることにあまり喜びがなかったんですよね。料理は好きだけど、料理をお金に変えたいわけじゃないんだってことに気づいて。そんなときに大学の友達と旅行した小豆島で、めっちゃ美味しいオリーブオイルに出会って。

油との出会い

オリーブオイルですか。
飲食業には惹かれなくても、やっぱり食べ物には興味があって好きだったので、オリーブオイル、おもしろいな、調味料っていいな、ってすごく思ったんです。そこから調味料関係で起業したいかもって気持ちがふつふつと沸いてきて。でもまだほんとになんとなくのイメージしかなかったので、休みを使っては調味料を作っている会社に足を運んでいました。
どこかで調味料から“油”に変わったんですよね。
滋賀県の東近江に菜種油を作っているNPO法人があって、そこで見た油がすごくきれいだったんです。美味しくてきれい、いいじゃんって。そこで「油だ」と思いましたね。それこそ醤油とかお酢も見に行ったんですけど、醸造って奥が深すぎて。それに結構醤油マニアとかもいるし、割とそれなりにいいものがすでに市場に出回ってるなってすごく思ったんです。そこは好き嫌いじゃなくて、ビジネスとして難しいなと。
油はそういう意味ではまだまだ発展途上?
私の中では完全にブルーオーシャンでした。いける、と思いました。
ブルーオーシャン!
小豆島や滋賀で出会ったような美味しくてきれいな油を見たときに、こういう良い油が持つ社会的な意義ってすごくおっきいって思ったんですよね。今の油って、ペットボトルに入って1リットル198円で売られてたりもして、原材料なんて遺伝子組み換えバンバン使ってるし、どういう風に作られてるかと言えばもう薬漬けのひどい世界で。だからなんでこんなに油の地位が低いんだ、こんなに虐げられなければならないんだろうみたいな、だんだん親心みたいになってきて(笑)。
油に対する母性が…(笑)
インタビュー風景だから本当に油の良いところをもっと一生懸命伝えたいし、何より油を搾るもとになる種は、植物が自分が生きてきた一生で得た情報のすべてを子孫に残すための一粒なんですよね。本当にそれこそが命なのに、なんでこんなにぞんざいに扱われているんだろうって。油は本当はもっと尊いものだと私は思っています。そういう大切なことが見える油を作っているかどうかっていうのは、すごく私にとって大事だったんです。そのひとつの答えを見せてくれた小豆島と滋賀は、すごく大きかったです。

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