陳 舜臣さんへの弔辞 (山口慶四郎名誉教授/ロシア語)

大阪外大名誉教授(ロシア語/大阪外事専門学校・1944年=昭和19年卒/R21)より、1月21日に逝去された陳舜臣さんへの弔辞が寄せられておりますので、ご紹介いたします。(1月25日にご送付いただきました。掲載が遅くなりましたことをお詫び申し上げます)


この1月21日午前中国歴史小説の第一人者である陳さんが亡くなったと、この日の各紙夕刊は大きく報じた。心から哀悼の意を表します。

 私が陳先輩(同じ大正13年生まれだが、氏は2月誕生、私は6月誕生で、学齢では氏が1年先輩)と最後にお会いしたのは、昨2014年5月6日のことである。新聞でこの日に神戸の旧税関メリケン波止場庁舎で『陳舜臣アジア文藝舘 プレオープン』の集いがあることを承知し、それ(定員先着100人)に参加を早速に申し込んだ。この集いは館内見学、音楽、鼎談、懇親会といった内容で企画され、開場は午前10時だったが、私は少し早めに入場し、館内をゆっくり見学していた。そこにご長男の立人(リーレン)さんの押す車椅子に乗った陳さんがお出でになったのである。陳さんは脳内出血で倒れ、どこかの施設に入所しておられると耳ににしていたので、私は驚き、「山口慶四郎です。お元気ですか。文芸舘オープンおめでとうございます」と声をお掛けした。陳先輩は片手を振り、笑みを浮かべられたが、私を認知されたかどうか。立人さんの話では、今の父の姿をフアンに見せたくないので開館前に付き添って来館されたとのことだった。

 私は先輩との交流が何度かあったが、ご無理なお願いを三度もしたことが忘れられない。

 一度目は同窓会総会で講演をお願いしたことである。
 私は大学紛争中の1969年4月に和歌山大学経済学部から母校教授に戻ったが、間もなくして着任早々の私に教授会は学生部長という大役を押し付けた。こんなことで同窓会との接触も繁くなった。部長の任期が終わる頃、学長から、「箕面へのキャンパス移転も決まり、これからは大学と同窓会の関係を密にしなければならないので、その連絡役として同窓会の学内幹事をやってくれないか。私から同窓会に推薦する」と言われた。畏敬する牧教授からのお言葉なのでこの要請を断る訳にはいかなかった。

 当時秋の同窓会総会は心斎橋近くの中華料理店をずっと会場にして催されていた。集まる顔触れもほぼ固定していて、その数も40名に届くか届かず、私なんかが最若輩の一人といった有様だった。一度は役員と参加会員との間で詰まらぬことで口論、座がすっかり白けたこともあった。これでは不味いと思い、私はマンネリを排し、会場を変え総会の雰囲気を一新してはと幹事会に提案した。<やれるならやってみろ>と任され、一部幹事とあれこれ相談、1975年の総会を阿倍野近くのビル最屋上にあるバイキングレストランを借り切って催した。望外の多くの、それも新顔の会員が参加してくださった。

 これに勢いを得て、総会で飲み食いするだけで終わるのは勿体ない、折角の会合の席で、同窓のどなたかに講演をして貰ったら有意義なんだがと提案、幹事会はそれを了承、講師の人選を一任された。司馬遼太郎に依頼も考えたが、氏には1970年の大学祭で学生対象の講演会で一度無理を言っている。そこで浮かんだのが陳先輩。早速当時お住まいの神戸は灘区篠原伯母野山町に先輩をお訪ねし懇請した。氏は多用のなかを快諾していただいた。

 それからが大変。まずは陳先輩の講演会に相応しい会場探し。幸い松屋橋筋本町近くにある商工会館のホールが確保でき、懇親会場は隣接する国際ホテルの大宴会場とした。勿論参会者は多く、1976年11月11日開催の総会はお陰で大盛況だった。これを最初にして今日も総会にセットして同窓の貴重な講演を拝聴できるようになった。誠に喜ばしいことである。

 私事を申して恐縮だが私は地図を読むことを趣味の一つにする。外大で図書館長をしているいる時、世界に雄飛活躍する学生諸君が読図能力を身につけるため館内に『世界地図コーナー』を設置すれば有意義なんだがと、こんな夢を描いていた。その頃に広岡寅治先輩(R 1928年卆)と初めて面識を得た。何度かお会いしていて地図愛好家と二人の趣味が共通していることが判った。地図コーナー設置の夢を聞かれた広岡先輩は3000万円を大学に寄付され、私の館長在任中に《広岡記念世界地図コーナー》が図書館内にオープンした。

 その節、学友の福田定一君(司馬遼太郎、氏も地図愛好家で、邸内のあちこちに古地図が額装され壁に掛けられているのを目にしたものである)にこのコーナーに相応しい<ここに出入りする学生に与える書>の揮毫を依頼した。直ぐに私の願いは叶えられ、同時にそんな奇特な先輩のためにと、未知の広岡さん宛ての書も揮毫してくれた。それには、「高峰秀子夫妻と中国を旅した折に買い求めた筆と墨で先輩のためにこれを書く」とも認められてもあった。ご寄付に何のお礼もできなかったので、福田君の心遣いに私は感謝し、広岡さんもこの書を手にし大喜びされたものである。

 ある時、広岡さんがふと、「同じ神戸市内に住む作家 陳さんの謦咳に接したことがないんだ」、と口にされた。そんな折、たまたまお会いした陳先輩に広岡先輩の話をすると、氏は広岡先輩の人物像に興味を示され、なんならお会いしても良いなということになった。お二人に出会いは1988年7月30日に広岡邸で実現した。夕食を挟む4時間に近いお二人の会話は、陪聴していて、それはそれは楽しいものだった。
 
 三度目に陳先輩にご無理を申したのは、語学者ではない私が外大を定年退職する前に、『わが国における外国語研究・教育の史的考察』なる研究チームを主宰し、その報告書をだした時のことである。

 私は母校在任中、その教育・研究体制に極めて批判的だった。語学科は蛸壺に篭もり、大学全体としての発展にそれほど関心を向けていなかった(『私の大阪外国語大学論』は、咲耶会東京支部発行の<2010 月例講演集>に所収・全34ページ)。そこで最後の置き土産として語学科横断的な研究チームを編成することを思い立ち、お陰でそこに主として若手の研究者を結集でき、2年度に亘り予算も付き、報告書(上)<現状分析と回顧・183ページ>、(下)<歴史と展望・283ページ>、(別冊)<わが国の大学における外国語教育の実態 - アンケートの集計結果・65ページ>を刊行することができた。

 この報告書作成の折、<洛陽の紙価を低めぬように>とあれこれ思案し、陳先輩に『西南亜細亜研究所のころ』と題する特別寄稿をお願いしたところ快諾を得、それが報告書(下)の巻頭に掲載されたのである。この研究所は文部省の予算によってでなく、外務省からの補助金で運営されていた。陳先輩は印度語部を1943年9月に卒業後、この研究所の助手に採用されたが、台湾出身で日本国籍であったのが、戦後台湾が中国に復帰、先輩の国籍が自動的に中国に移ったので国立学校の研究者の身分を失った。今日では考えられないことである。

 最後にもう一言。私は九十路(ここのそじ)を歩み始めて今年で2年目になる。そこでこの年頭から、上京できるとすれば今年が最後の年になるだろうと予感しだした。そんなことで咲耶会東京支部に今年が戦争終結70年に当たるので、支部月例会で、サハリンで敗戦を迎えた私が<一海軍情報士官の秘話 ~ 通信戦争でもあった15年戦争(仮題)>といったテーマでお喋りしてもよいと連絡を入れた。支部役員会はそれを5月11日開催するとと快く受け入れてくださった。私はこの講演の中で陳先輩の唯一の青春時代の自伝的小説(その半分近くを先輩の在学時の大阪外語につき書いておられる)を引用したいと構想していた。そんなところに陳舜臣先輩の訃報である。本当に残念至極の言葉に尽きる報であった。
 ここに重ねて衷心からの哀悼の意を申しあげ、このキーを叩くのを擱きます。

山口 慶四郎(R 1944年卆)