外語マガジンsakuya

「時代を超えて 外国語学部を語る」

海外事業において多くの功績を残し
日本のみならず、世界の経済にまで影響を与えた少德氏。
学生時代から会社員引退まで、駆け抜けた人生に迫る。

少德敬雄プロフィール

少德 敬雄
英語科・1959-1963在学。大阪大学外国語学部・大阪外国語大学同窓会『咲耶会』会長。

滋賀県出身。昭和14年生まれ。57年前に大阪外国語大学に入学、授業そっちのけでのめり込んだESSのディベート活動で論理的思考とプレゼンテーション力を身につける。松下電器株式会社に入社後、エアコン事業部で輸出担当として活躍。アメリカ松下電器(株)勤務を経て、マレーシア松下電器エアコングループで社長を務める。その後、輸出・海外部門の要職を歴任、訪れた国は100ヵ国以上。代表取締役副社長を経て、2007年より同社終身客員(現在は名称変わり「客員」に)。大阪大学外国語学部・大阪外国語大学同窓会『咲耶会』現会長。

インタビュアー:菊池藍(夜/中国語 2011年卒)

上本町八丁目の大阪外大へ

少德さんの学生時代、大学進学率はどれくらいだったんでしょうか。
高等学校を卒業して大学に行く人が何割かということですね。1960年前後なので、覚えてはいないけど、2割くらいであったかなあと思います。
そんな中で、なぜ大阪外国語大学に進学されたのですか。
英語の勉強が好きだったのと、他の外国語が勉強したいと思ったのと、そして、海外で仕事がしたいと思ったのと。こういう組み合わせで、第一志望で大阪外国語大学へ入りました。
インタビュー風景
少德さんが入学されたときは、大阪外大のキャンパスは上本町ですか。
上本町八丁目。ボロボロの校舎でね、苦労して良い大学に入ったと思ったのに、キャンパスの建物を見るともうボロで、ちょっと寂しかったです。入学式のときに親父が見に来てくれてね、親父も落胆したんじゃないかと思います。まぁでも仕方がないですよね。国立大学だし、戦争でかなりやられて、完全に復旧復興する時間とお金がなかったと。でもね、やっぱり良い先生もたくさんいらしたし、同期にも恵まれてお互い切磋琢磨、刺激を与えあって、良い関係を保てましたよ。
英語科ということですが、英語以外の言語も学ばれましたか。
ええ、第2外国語がフランス語なんですけどね。あんまり勉強しなかって、なんとか試験落ちずに通ったという具合で。今、英語以外に話せる言語はフランス語ではなくスペイン語なんですよ。
そうなんですか(笑)
スペイン語はね、会社に入ってから。仕事終えたあとにスペイン語の講座があって。
会社のなかで、ですか?
ええ。基礎コースからだんだん上がっていって、会社のなかで試験があって、それも通りましたから、かなり喋れるんですよ。原稿がいりますけど、多くの人の前でスペイン語で挨拶もできます。
素晴らしいですね。
その次がフランス語ですけど、これはさっき言ったようにだめなんです。もっと勉強しといたらよかったなと。

商業英語とESS

入学式。恩師の羽田先生と。

入学式。恩師の羽田先生と。
(少德さん:前列右, 羽田先生:後列中央)

外大の英語の授業で、一番好きだった講義は何でしょうか。
卒業後はビジネスの世界へ行こうと思っていましたから、ビジネス英語、商業英語が一番おもしろかったです。羽田三郎という先生がいらしてね、もうお亡くなりになりましたけど、良い先生でした。一番興味を持ってやっていました。当時はね、パソコンなんてないし、インターネットもない。セールスをするときは商品を売り込むためのレターを書くんです。タイプライターで書いて、郵送で送る。仕事の提案も商品の説明も全部英語で書かないかんわけですよね。しかも相手を動かす、商売に繋がる英語の文章になってなあかんわけです。それが重要なところで。会社に入ってから役に立ちました。Telex(*1)っていうのは知ってますかね?
テレックス…聞いたことあるような…。
こっちでパチパチパチっと打って、通信をすると、あっちでパチパチパチっと文章が出てくる。しかしあんまり長いこと通信してられないので、必要なことだけを打つわけ。
*1…Telex てれっくす。teleprinter exchangeの略。電動機械式のタイプライターで打ち込んだ文字を、電話回線を使って相手に送る通信手段。その後FAX、電子メールが登場し今ではほとんど使われていないそうです。
なるほど、Telexの使い方も商業英語で教わったのですか?
Telexの使い方はやってません。ただ卒業論文は英語ですから、古い英文タイプライターを中古品屋さんで買ってきて、練習していました。誰かに打ってもらうというわけにはいきませんし。英文タイプライターのキーボードの順番は、今のパソコンのキーボードと同じ順番になってますから、ASDF(*2)と。人のタイプライターを借りたりしながら、みんな打てるように練習していましたよ。 *2…ASDF キーボードのアルファベット2段目、左からA・S・D・Fの順番。この頃からタイプライターは今のキーボードと同じQWERTY配列だったそうです。余談ですがこの配列が成立した経緯が諸説あって面白いので、興味がある方は「QWERTY配列」で検索を。
英語を使って商業の世界へ行きたい、と思ったのはなぜだったんでしょう?
英語を使って仕事をするのに一番手っ取り早いのがビジネスやと思ったんです。商社、メーカー、この分野が選択肢としてすぐに思いつきました。ここらで仕事したいなあ!と。
私は言語を使う仕事なら通訳・翻訳と安直に考えてしまいがちなんですが…
通訳はね、非常に重要なプロのジャンルですけど、自分で考えて、自分の意見を述べてプレゼンテーションするというよりも、他の方がお話しなさるのを正確に伝えて、逆に伝え返す。こういう仕事ですから、できるだけ僕の選択肢からは外したいなと思いました。
在学中はESSに入られていたと伺いました。
はい。ESSには初めから入ろうと思っていましたし、高等学校にいたときもすでにESSをやってましたから、迷わず。
迷わず、ですか。
はい。大学で教育を受けたことよりも、ESSで頑張った、活躍した―と自分がいうのはおかしいかもしれませんが―ことの影響力、ベネフィットの方が大きかったと思います。
具体的にはどんなことが?
ESSにはいろんなチームがあったんですが、僕はディベートをやるチームに入ったわけです。例えば、『憲法9条を改定すべきか』というテーマを取り上げて、反対側に5~6人の弁士がいて、賛成側にも同じだけの弁士がいるんです。それで議論、ディベートをやるわけです。単に出まかせに議論するのではなく、まずそのテーマの背景を調べ、いろんな選択肢を出して、“これが一番正しい”という結論を導き出す。その結論をもって賛成側、反対側、それぞれ論理立てたプレゼンテーションをするわけです。
なるほど。
ロジカルに考える癖と、それを分かりやすく英語でプレゼンテーションすること。これが、大学時代に得た一番大きなベネフィットだったと思います。一緒にやってた仲間で優秀なのがたくさんいましたから、彼らと一緒に勉強をし、論理立てをし、プレゼンテーションをした。大学時代に先生方に教えていただいたことよりも一番大きい成果かなあと思います。
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大義名分
授業ほっぽり出して準備をし、プレゼンの練習をし、やり直し…そればっかしやっとって、フランス語の単位を取り損ねた人もいました。そのせいで1年遅れたりしてね(笑)。僕も授業はよくサボりました。“授業よりもっと大事なことがある”っていうのが僕たちの勝手な大義名分。でもESSで3回ほど全国優勝してますからね、サボった分成果は出したと思ってますよ(笑)。とくに東京外国語大学との試合(東外戦)は、体育会もですけど、僕らのディベートもやってましたから。“東京外語には勝たなあかん”とね。

松下幸之助に憧れて

卒業後は、松下電器に入社されたんですね。なぜ松下電器に?
松下電器に行った理由は、1にも2にも3にも、創業者・松下幸之助さんがいらっしゃるからです。松下幸之助さんを非常に尊敬しておったと、それに尽きます。
特にどんなところを、尊敬されていたんですか。
幸之助さんは『企業は社会の公器である』ということを仰ったわけです。やさしく言えば、“会社とは、世の中のために役立つ仕事をするものである”ということで、企業は社会のためにあって、個人のためにあるんじゃないということなんですが。これを非常に信奉されておって、それを言うだけじゃなくて、いろんな場いろんな機会で実践されてるんです。実践するときに、成功だけでなくて失敗もされてます。
そうなんですね。
そんな難しいことを仰ったわけではなくって、「企業は社会のためにあるんだ、世の中のためにあるんだ」と。ただ、それを実践するか実践しないかで差がでるんだと。幸之助さんはそれを見事に実践されて、そのプロセスで自分に続く人をたくさん育てられた。そこが、非常に興味を持ち、尊敬もし、憧れているところです。憧れているというレベルじゃないなあ、崇拝をしているっていうくらいですね。
1980年アメリカ勤務時代_松下幸之助創業者来米時 1980年アメリカ勤務時代_松下幸之助創業者来米時

1980年アメリカ勤務時代_松下幸之助創業者来米時

実際に、入社してご本人にお会いになったんですか?
ええ、非常に幸運なことに。1964年に東京オリンピックがありましたよね。そのときに、アメリカの雑誌『LIFE』―これは、写真が多いグラビア雑誌なんですが―が幸之助さんの特集をするということになりました。『LIFE』のリポーターとフォトグラファー、アシスタントの3人がですね、1ヶ月ずっと幸之助さんが行くとこに付いていくというので、僕はそのお世話をするのに付いていったんです。そういうチャンスをもらったんで、幸之助さんとお話することもできたし、『LIFE』の記者さんのいろんな質問について幸之助さんが答えられるのを聞いて、その通訳もして。面白かったです。僕のような年齢で幸之助さんとそういう機会を持てたというのはごくごく稀で、僕は非常にラッキーでした。
それは、英語ができたからお世話役に抜擢されたんでしょうか?
英語ができたからということもあったし、どうでしょうね。尊敬しとったからかな(笑)?
実際に幸之助さんとお話しされて、印象に残ってることは何ですか。
そうですね、まずとにかく腰が低くて、謙虚で、自分が先に喋るんじゃなくて、人の話を先に聞いて。人の話をよく聞いて謙虚にものを考えて、「こうしましょう」とか「こうしたらどうですか」というんです。それから自分と接触する方―幸之助さんの言葉でいえば「縁のある方」―に対する感謝の気持ち。謙虚と感謝、これを強く持っておられる方で、非常に感心しました。
…私、事前に八代田さん(*3)に「少德さんってどんな方ですか?」ってお伺いしてたんです。
どう言わはった? *3八代田さん…モンゴル語専攻1981卒。外国語学部同窓会「咲耶会」事務局の方。いつもたくさん助けてくださる方です。外語マガジン『sakuya』を運営できているのは八代田さんのおかげ…。いつもありがとうございます!
インタビュー風景
非常に腰が低くて、謙虚で、自分が話す前に相手の話をよく聞かれて…って、今、まったく同じことを仰ってて。めちゃくちゃびっくりしました。
あぁ、そうですか。幸之助さんは、人生で一番、影響を与えていただいた方ですね。
素晴らしいですね。
幸之助さんは、あともう一つ、素直な心を持っておられた。だから人の話を謙虚に聞いて、私心なく、素直に判断ができるんです。縁あって会う人を非常に尊敬し、謙虚に接する。それを少しでも僕も身に付けよう、爪の垢を煎じて飲もうと、こういう気持ちがありましたね。しかしそれはもう、天と地との差ぐらいですから。でも、トライはしました(笑)。
トライされたんですね。でも今のお話聞いて、少德さんご自身のことかと思いました(笑)。
そうですか。それは嬉しいよね。

100ヶ国を渡り歩いた現役時代

さきほどスペイン語のお話が出ましたが、お仕事では今まで何か国ぐらい訪れたんですか?
通り過ぎた国を除いて、一泊でもした国、といったら100を超えるでしょうね。
すごい!そのうち、海外を拠点に働いていらっしゃった期間もあると伺っています。
1980年から87年が、アメリカのニュージャージー州。87年から93年までがマレーシア、クアラルンプール。合わせて13年半海外で勤務しました。
どのような仕事をされていたんでしょうか。
入社時は国内で、エアコン事業部でルームエアコンの輸出を担当していました。当時はエアコン輸出の開拓期でしたから、いろんな国をまわりましたね。現地で商品説明をして、売り方やプロモートの仕方、修理時の対応方法を伝えて。また、現地の声をもとに商品を企画して、こういう特徴をもった商品がいるんだと工場側に提案をして、作ってもらうということもありました。こういう仕事を11年ほどやっていまして。そのあとアメリカへ行き、次にマレーシアに行きました。
アメリカではどんな仕事を担当されたんですか?
アメリカではですね、最初の1年半が経営企画。その後5年くらいは、ノンコンスーマー(Non-consumer)つまり非消費財(*4)、いわゆるテレビ・ラジオ・エアコンとかいったものじゃなくて、テレビに使うためのブラウン管・変圧器・チューナーとか、自動車に使うためのスイッチ・カーオーディオとか。メーカーがお客様で、そのメーカーが商品を作るときに使われる部品・部材・設備を売っていました。だからお客さんがGEとかIBMとか、ゼネラルモーターズとか、アメリカの超一流の会社でした。そこへいろんな部品・部材・設備を提案したり、引き合いがあれば説明に行くと。そのときのプレゼンテーションは大学のESSで勉強したものが役に立ちましたよ。まず商品全体の説明をして、ポイントを並べて、だからこれが良いですよ、と伝える。 *4…非消費財 経済用語で「消費財」は家庭に需要がある製品「消費を目的とした財」のこと。ここでいう非消費財とは、企業で消費されるような製品「生産を目的とした財」のことで、“生産財”とも呼ばれるそうです。
論理的に、ですね。
うん、おもしろかった。
当時、日本製の部品等のアメリカでの需要は大きかったんでしょうか。
当時のアメリカは製造業がまだたくさんありまして、アメリカ国内で商品企画をし、製造するという時代でした。もちろんすでに海外へ製造をシフトしている会社もありましたけど、まだ国内で自動車や電気製品、IT関連機器を生産するメーカーが非常に多くあって、そこへ売り込みに行ったんです。だから需要は大いにありました。今はアメリカで生産はあまりやっていないですね。自動車はやっていますけど。どちらかというと今は国内で商品企画して、中国や台湾で作らせて、商品をアメリカへ持ってくる。または世界中で売りまくるんです。アップルのiPodなんか見ていただいたらわかりますが、あんなスタイルが多いんです。
なるほど、その後マレーシアではどんな仕事を?
マレーシアでは、エアコンとエアコン用コンプレッサー、エアコン用モーターの製造をする会社の社長をしていまして。
1988年マレーシア、マハディール首相と

1988年マレーシア、マハディール首相と

マレーシア松下電器エアコングループの社長、ということですね。
そうです。大きな会社でね。5000人くらい人がいた。売り上げもですね、700~800億ぐらいある大きな会社でして、そこの社長でした。
すごい…
肩に力が入った。まぁ責任が重かった。そこで6年半くらいやりました。
マレーシア時代で一番記憶に残っていることって何でしょう。
日本に追いつけ追い越せ運動「Let's catch up with Japan!」というキャンペーンをやったんです。大きな工場だったんですが、エアコンを作る工場、エアコンの重要部品であるコンプレッサーを作る工場、それからそのコンプレッサーに入れるモーター、エアコンに使うファンモーターを作る工場があって。それぞれの工場の各セクションは、日本にも同じようなセクションがあるわけですね。そこを競争させたんです。1990年からスタートして3年間で、コスト・品質・納期(リードタイム)の3分野で親元の会社―日本の松下電器です―に勝ちました。
え、勝ったんですか!
はい。それまでマレーシアのラジオ・テレビ・新聞・雑誌等々でずっとこの運動が報道されていて、マレーシア政府も注目していましたから、パナソニックが親元に勝った、マレーシアが世界一のルームエアコンの輸出国になったということで、1993年にマハティール首相(当時のマレーシア首相)から賞状をいただきました。
すごいですね…!
ね。あれが一番嬉しかったですね。そのあと2000年の初めにですね、輸出貢献をしてマレーシアの名誉を高めた、マレーシアのステータスを高めたということで、マレーシア国王から叙勲されました。
1999年マレーシア国王より叙勲

1999年マレーシア国王より叙勲

じゃあマレーシアでは少德さんは有名人ですか…!
いやーもうだいぶ年とって時間が経ってますから、今の方々はご存じないと思いますけど。叙勲されたので、自分の名前の前に“datuk”っていうタイトルを前に付けるんです。“Datuk Yukio Shohtoku”。日本では全然意味通じないですけど、マレーシアではみんな「Datuk, Datuk」言うてくれて。
Datuk(*5)?どういう意味なんですか?
尊称で、まぁ僕はイギリスでいえば“Sir”ぐらいなんじゃないかなと。これが、我が人生で楽しかったことですね。
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マレーシアの言語
マレー語はポリネシア系の言葉で、インドネシアやフィリピンのタガログ語と同じ語学系統の言葉です。ただ、イギリスの植民地としての期間が長かったので、英語が非常によく通じましたね。
*5 datukダトゥ 最後の“k”はサイレントで発音しません。後からネットで調べてみると、「マレーシアの称号で、連邦政府が与える貴族に相当する称号」とありました…!
その後は日本が拠点ですか?
いえ、93年から2000年まで、中国担当でした。中国語全然喋れないんですけども、次から次へと合弁会社や独資会社ができた時期でしてね、政府との交渉、合弁相手との交渉等々をやりました。それから2000年から2005年までが海外全般の担当です。
その間にいろんな国を飛び回られたんですね。
ええ。エアコン時代に訪れた国と、海外担当になって訪れた国の数を合わせると、100を超えるということになるわけです。
なるほど、そして2003年には代表取締役副社長になられて…
はい、2007年からは松下電器の終身客員ですが、現在は名前が変わりまして客員になりました。客員っていっても何もしてないです。月に一度くらい枚方にある人材育成センターに行って、幹部候補生や海外へ赴任する幹部の方々に対して、講話といいますか、プレゼンテーションをやっています。
「時代を超えて 外国語学部を語る・その2」へ続く
次回は大阪大学との統合や、現在の外国語学部について伺っていきます。

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