「街をつくって生きる」
「普通で、まじめであることは、間違っているんだろうか?」
そんな疑問さえ浮かぶ外国語学部で
阪大外語2期生の彼が導き出した自らの答えとは。
岩井 雄大
外国語学科英語専攻・2009-2013在学。
総合建設会社 現場事務員
香川県高松市出身。香川県内の高校卒業後、大阪大学外国語学部へ入学。在学中は外国語学部バレーボール部に所属、家庭の事情で留学を諦めるも、熱心に語学の勉強を続ける。その後、某総合建設会社に就職。現在は現場事務員として、建設現場でさまざまな職人と一緒に建設物を作り上げている。2016年4月よりアメリカ・シカゴ駐在。
インタビュアー:菊池藍(夜/中国語 2011年卒)
とある講演を聞いて
- 岩井さんは香川県のご出身なんですね。
- そうです。香川県の田舎の普通の家で普通に育ってきました。“普通of the 普通”みたいな高校生でした。
- 普通of the普通(笑)。外国語を勉強しようと思ったのは何故ですか?
- 高校2年生のとき、鹿児島大学の教授が高校に講演をしにきたんです。南米のブラジルとかアルゼンチンとかの貧困問題を扱ってる方でした。その講演を聞いて、“自分の思ってた南米と全然違うな”と。それまで世界史が好きで、中南米の歴史とかにも興味があって、サッカーも好きだったんで、南米いいなあとは思ってて。でもそのとき、家を建てる土地がないから断崖絶壁の斜めになってるところに家を建ててる、っていう写真を見せられたんですね。貧困でエイズも流行していて、日常的に人が銃殺されている、とかそういう事実を聞かされて。それまで普通of the普通で育ってきた僕だったので、地球の裏側でそんなことが起こっているんやってことにすごい衝撃を受けました。それがきっかけで、南米の犯罪とか貧困とか、そういう国外の問題に興味を持つようになったんです。
- なるほど。
- それで進路志望用紙を提出するときになって、“大阪大学外国語学部スペイン語専攻”って書いたら、担任の先生に「なにこれ?」って言われて。
- んん?
- 「いやあの、ちょっと興味があって…」って言ったら、「じゃあ、英語科にしといたら?」って。それで「…あ、ハイ。わかりました」って返事してしまって。
- えー!
- そこで「いや、こないだ講演を聞いてすごい熱い想いになって、南米の貧困とか、いろんな問題に取り組みたいんです!!」って言えたらよかったんですけど、それってちょっと恥ずかしいことなのかな、と思ってしまって。本当は講演を聞いたあと、すぐバックパックを背負って南米に旅に出たいくらいの熱い想いがあったのに、…なんか言えなかったんです。
- そこで運命が変わりましたね…。
- その先生としても、スペイン語とかより、スタンダードというかいわゆるメジャーな『外国語学部英語専攻』っていうところに、“とりあえず行っておけば?”っていう気持ちがあったんでしょうね。それで「わかりました」って進路志望を英語専攻に変えて、当時大阪大学に変わったばっかりやけど偏差値大丈夫かな…とか思いながら、ギリギリで合格できた感じです。
- 英語専攻の最初の授業って、どんな感じで始まるんですか。
- 僕、18年間普通に香川に住んでて、普通に高校受験して、普通に大学受験して入学したんです。そしたらまず英語専攻の一発目がネイティブの授業でした。90分間まるまる英語。何言ってるかわからないし、めっちゃ疲れるし。センター試験の英語の点数とかも自信あって、自分はそこそこ英語できるわと思って大学入ってきたけど、何か質問されてもその質問がわからんくて何も答えられない。相手が何言ってるのかわからんのがすごいショックでした。そんな授業が3コマくらい続いたんです。
- ハードですね(笑)。
- ネイティブ・ネイティブ・ネイティブって続いて、ようやく4つ目の授業で日本人の先生でした。“やっと日本語が聞けた”っていう安心と同時に、“えらいとこきてしまったな”と思いました。でも隣の席の子はネイティブの先生とも普通にペラペラ会話できてたんですよ。たぶん帰国子女とかやったと思います。
- 最初からできる人いますよね、めっちゃわかります。
- とりあえずこの人とメールアドレス交換しとこう!宿題わからんかったら聞こう!って(笑)。
- なるほど(笑)。
- 僕、名前が“いわい”なんで出席番号1番だったんですよ。それで日本人の先生の最初の授業で真っ先に当てられて。「この文章を訳しなさい」って言われて訳したら、「ガチガチの高校英語ですね」って言われました。
- こわー、こないだまで高校生やってんからしょうがないのに…。
- ちょっと怖かったですね(笑)。でも、授業ではいわゆる教科書英語じゃなくて、実際に現地の人らが使ってる英語を教えてもらいました。ちゃんとした知識を身につけさせてもらったと思います。
moreクラス分け
英語科は60人くらいだったので、A・B・Cと20人ずつにクラス分けされていました。そのクラスが本当に上手いこと分けられていて、全然タイプが違うんですよ。大講義室で同じ必修授業を受けたとするじゃないですか、きちんと前の方に座ってノートを取るのがAクラス。レジュメだけ取ってサッと帰るのがBクラス。そして僕が所属していたCクラスは、だいたい後ろの方の席で寝てました(笑)。 - 大学生活はどうでしたか。
- めっちゃ楽しかったですよ。外国語学部体育会のバレー部に所属していて、僕は初心者やったんですけど人数が少なかったんで試合にも出てました。6人しか部員がいないときもありましたよ(笑)
- え、バレーって1チーム6人ですよね?
-
はい(笑)。外国語学部の運動部はやっぱり人数が少なくて。大阪外大が阪大と合併(*1)するとき、体育会の部活も一緒になるかどうか決断を迫られたそうです(*2)。大阪外大体育会のときには部活が何十個とあったみたいですけど、合併後も外国語学部体育会として残った部活は1ケタ台しかありませんでした。僕、外大のときはいなかったですけど、やっぱり先輩から聞いてると当時は「阪大と合併するくらいやったら全員退部する」くらいの感じやったみたいですね。
*1 正式には“統合”ですが、当時の外語生の大半が“合併”と呼んでました。 *2 運動部の合併において、旧外大運動部は女子部員が多く、阪大運動部は男子部員が多かったことから、部員の顔合わせはまるで大型合コンのようでした。合併は至極困難を極めましたが、その後外大&阪大カップルが誕生、夫婦となったケースもあります。(注:某登山系運動部の場合) - 大学間の確執がありましたよね…。
- バレー部は合併しなくても良かったと思います。空気とかも全然違うし、やり方も違うし、人種違うし(笑)。
- そういえば岩井さんは、留学に行こうとは思わなかったんですか。
- 思ってたんですけど、ちょっといろいろあって。僕が大学2年生のときに父親が病気になって、仕事ができなくなったことがあったんです。家の収入がガタンと落ちてしまって、ちょっと大学は4年で出て行かんと厳しい、ってなりました。それで一時期学費が払えなくなりそうで、学費優待に申し込んだんですけど書類不備で落ちてしまって。明後日半年分の学費払わないといけないのに、金がない、という状況になりました。じゃあ大学辞める?っていうとこまで追い詰められていたので、そんなときに“留学”とは言えなかったですね。それで諦めました。でもこういう言い方は父親に申し訳ないので…。金銭的に厳しい状況でも、それを乗り越えて留学に行ってる人はいるし、僕はちょっとそこまでして海外に行こうっていう根性がなかったってことかもしれない。
- 結局、学費はどうされたんですか。
- そこはお母さんにお願いして、なんとか工面してもらいました。3年生以降は学費優待に受かったんで、授業料払わずにタダで勉強させてもらってましたよ。でもそこからですね、学費払えないかもしれん、じゃあ大学辞めるん?っていう瀬戸際に追い込まれてやっと、“ちゃんと勉強したい”って思うようになって。せっかく阪大外国語学部にいるんやからって思い始めてから、かなりまじめに勉強するようになりました。
- 留学に行けない分、国内で何か頑張ろうという気持ちもありましたか。
- それはありましたね。みんな大学3年の夏くらいから留学に行くんです。「アメリカ行ってきまーす」とかいう友達を見て、羨ましいなあと思いつつ、悔しいなという想いがありました。じゃあ日本におる間に、彼らに負けないように英語勉強しよう、帰ってきたらびっくりするような知識身につけとこうと思って。勉強はすごい好きでしたね。図書館にずっとこもりっきりになって、授業4限目からやのに1限からずっと勉強してました。箕面キャンパスの図書館の、2階のちょっと豪華な机のところがお気に入りでした。
- あの6人くらい座れる…。
- そうです、そのでっかい机に1人で資料バーッて広げて占領して。
- そういう人、いましたね!
- その1人ですね(笑)勉強していくと知識が身についていくのがすごい楽しくて。講義とかも、正直まじめにやらなくても単位がもらえる授業あったじゃないですか。でもちゃんとやろうと。
- なるほど。
- その頃にはネイティブの先生が何を言ってるかもわかるようになってきました。とりあえず積極的に、分からないことがあったら何でも聞こうという姿勢やったんですね。そしたら僕、たまに突拍子もないこと聞いてたみたいで、友達から「岩井たまにバグるよな」って言われてました(笑)。
- (笑)、まじめやったんですね。
- だからその、あんまり外国語学部生らしい良い意味で“ぶっとんだこと”っていうのができなかったのはちょっと、心残りというか。先輩が面白いことをやってるのを見て、羨ましいなと思って憧れてました(笑)。
more箕面活性化委員会
先輩が『箕面活性化委員会』っていうのをやってたんですが、まあぶっとんでるんですよ。僕はそれをたまに手伝っていて。ハロウィンの日に、墓石階段の上でチョコレートコーティングしたビスケットを配るんですけど、生協前には裸でチョコレートまみれのラグビー部の先輩がいて、その先輩の体からスタッフがビスケットにチョコをつけてるんですね。ビスケットを食べながら墓石階段を下りて生協前にやってくる学生の反応を楽しむ…という。もちろん別のチョコですよ!ボジョレーヌーヴォー解禁日にも同じようなことやってましたね。ボジョレーを飲みながら墓石階段を下りると、絵具で作ったボジョレープールにラグビー部の先輩が浸かってるんです。…そういうのに憧れてました(笑)。 - 勉強の結果、留学組をびっくりさせることには成功したんですか。
- いや、それはなかなか難しくて…。やっぱり留学行ってきた人も現地でちゃんと勉強してるから、逆に憧れが増すだけでしたね。ああやっぱり行きたかったなあって。TOEICのリーディング・ライティング・リスニングとかは、“そのための勉強”っていうのをしてたんで、そこそこできたんですけど、いざ喋ろうと思ったら、留学して現地で勉強してきた人には全然勝てないなと。会話ができないんですよね。日本人の性格もあると思いますけど、日本人って英語でスピーチとかプレゼンテーションするのは得意でも、会話は下手くそなんですよ。僕もまさにそれで、プレゼンはできても質疑応答でしどろもどろ。悔しかったですね。