外語マガジンsakuya

「街をつくって生きる・その2」

“まさに外語生”に憧れながらも
自分のやり方で突き進んだ4年間。
その先に待っていたのは
高校時代に諦めたはずの夢だった。

就活と彩都

就活を始めたのはいつごろですか?
大学3年の12月ですね。秋ぐらいまで部活の秋リーグに出て、周りが就活セミナーや自己啓発や、言うてやってるときに、“なんかやってるなー”ぐらいにしか思ってなくて。いざ部活を引退して“さあ就活や!”って思ったのが12月でした。しかもちょうど就活解禁が12月になった年やったんです。
まず何をしましたか?
とりあえずリクナビに登録して(笑)。何になりたいとかあんまりなくて、とりあえず就職して何かになろう、みたいな。あんまり深く考えてなかったですね。最初は貿易とか商社とか見てました。やっぱり外国語学部やしそういう―また周りに流されてますけどね!(笑)―英語を使って海外に出ていく仕事がいいかなあと、とりあえずそこからあたってみようと。
インタビュー風景
いつかは海外で仕事を、という気持ちでしたか。
そうですね。漠然と憧れもあったし、挑戦してみようと。でも結構早いうちから、物流とか商社とか、何か違うなあと思って。うまく言えないんですけど…。
…ふむ。
ちょうどそのころ彩都の開発がどんどん進んでたときやったんです。話が遡りますけど、大学1年生の最初のオリエンテーションのときに、初めてモノレールに乗って彩都西駅から箕面キャンパスに行ったんですね。このときも、“すごいところにきてしまったな”と思いましたね。めっちゃ寒いし、風すごいし(笑)。ものすごい広大な更地やし、立ち入り禁止のフェンスは錆びてるし。
錆びてましたか(笑)。
なんかここ、開発失敗したんか、と思いました。でも、在学期間中にものすごい勢いで家とかマンションが建っていったんですね。彩都西から当時住んでた粟生間谷まで自転車で降りていくと、僕が3年生になるころにはもうすごい綺麗な街並みができていて。 “3年間でこれだけ変わるんや。街をつくるってすごいダイナミックで面白そう”って思ったんです。
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マルヤスの前
1年のときは豊中キャンパスに通ってたので石橋に住んでました。石橋小学校の近くです。2年からキャンパスが変わるのに合わせて粟生間谷に引っ越ししました。マルヤスの目の前やったんで体育会メンバーのたまり場になって(笑)。僕は箕面キャンパス大好きですよ。ちっちゃくて、どこにでもすぐ行けて、レインボー行けば誰かに会えるし。
そこから建設業界を志すようになったんですか。
そうですね。もともと大学を志望したのも、途上国で水道とか病院とか、道路・橋とか、インフラですかね、そういうのがない状況の人たちの話を講演で聞いたことがきっかけだったんですよね。いずれは海外でインフラの仕事を、って思うようになりました。
高校時代の想いがここで繋がるんですね。
そうなんです。めっちゃ回り道しました(笑)。
今の勤務先の建設会社に決めたのは何故ですか。
実は、箕面キャンパスのA棟とB棟を作った会社なんですよ。
え、そうなんですか!
でも他の建設会社もいっぱい受けました。試験に落ちたり日程が合わず諦めたりしたところもあったなかで、縁あって内定をいただいたのが今の会社です。
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父親が建設現場の作業員のような仕事をしていたので、軽トラに乗っけてもらってよく現場にいってました。父は仕事に行くので、僕が軽トラの助手席にひとりでポツンと座ってると、現場のおっちゃんたちが乗ってきて「おう元気か~」って声かけてくる、みたいな感じでした。だから建設っていうのは意外と身近にあったんかなって、今になって思います。

現場で働く

何職での採用ですか?
事務職です。事務は営業・経理・現場の3種類の職場に分けられているので、入社してから最初の1年間は各部署で4ヶ月ずつ研修を受けました。翌年から神戸の現場に配属されて、建設現場の事務に携わっています。
どんな仕事内容ですか。
建設現場で作業服着てヘルメット被って工事や現場監督をしている人がいますよね、彼らは技術系の職人さんたちです。僕たち事務は、現場の事務所に常駐して、彼らが仕事をするために必要なお金や、工事計画の管理、工事保険の契約・対応などのあらゆる事務仕事を担当しています。近隣住民へ迷惑をかけないように音やホコリ対策を指示したり、市役所に工事申請を出したり、ときにはクレーム対応をしたり…と結構忙しいですね。基本は事務処理に追われています。本当は職人さんともっとコミュニケーションを取りながら仕事をするのが理想です。
職人さんって、たとえばどんな方々ですか?

入社後初めて担当した工事現場

工程によっていろいろですけど、たとえば何もないところに建物を建てるなら、最初は地盤を掘る掘削屋さんですよね。それから大工さん、鉄筋屋さん、だんだん建物が建ってきたら鉄骨を建てる職人さん、部屋の壁や床を張る内装屋さん、家具を備え付ける造作大工さんとか…。入れ代わり立ち代わり、いろんな職人さんが関わってきます。それぞれの技術を持った専門家たちが、自分の仕事をきちっとやって、次の人に渡すっていうことがすごく徹底されています。
すごくいろんな方が関わるんですね。その現場に最初から最後までいるのが岩井さんですね。
そうですね。現場の仕事はすごく楽しくて好きです。職人さんって、本当にいろんなバックグラウンドを持ってるんですよ。そういう人たちと仕事ができるのが楽しい。それに僕は最初から最後まで現場にいるので、一つひとつの節目が終わって、だんだんできあがっていくのを見れるのが嬉しいです。鉄骨が立ったとか、内装工事ができあがって部屋の全貌が見えた、とか。でもやっぱり完成したときの達成感が一番ですね。それこそ、更地だった彩都が卒業時にすごく綺麗な街になっていたのを見たときと同じような感動があります。
辛いことってないですか。
ありますよ、現場事務は大抵ひとりでやるので、とにかくやることが多いんです。夜中までやってるときもありますし、職人さんが怪我してしまって労災が起きたときは辛いですね。労働基準監督署や会社の安全部門への報告とか、イレギュラーな業務も発生します。近隣住民からのクレームも、みなさん感情的になっているので…対応が大変です(苦笑)。あと、建設現場って天候に左右されるのでなかなかスケジュール通りにいかないんです。台風はきますし大雨も降りますし…。
大変そうです。仕事をする上で必要な資格とかはありますか?
必須じゃないので今は持ってないんですが、やっぱり建設業なので、いずれは建設業経理とか衛生管理とかを取得して、仕事の幅を広げていきたいですね。あと、会社からはTOEICやれって言われてます。

主張すること

いずれは海外で、ということでしょうか。
海外行きたいですね。でも、外国語学部やから海外枠で採用されたんやろうな、と思って会社入ったら、もっとすごい人がたくさんいたんですよ。TOEIC満点の人とか、それどこ??みたいな国に住んでた人とか、僕なんか外語出身やのに海外在住経験でまずもう負けてる、みたいな(笑)。それこそ高校で英語そこそこできるわ、と思って大学入ったら打ちのめされたみたいに、また打ちのめされて。でもそこは這い上がってやろうと思ってます。
根性ですね。
ゼミの写真

卒業式の後ゼミのメンバーと

外語入学したころはほとんどクラスでビリに近いくらいの状況やったのが、結構勉強してそこそこ力がついて、最後はちゃんと知識も身についたし友達もできたし、“ほんまに4年間楽しかった!”って思って卒業できたのがあるから、会社でも最初ビリでも這い上がっていけるかなって。基本あんまり難しく考えてないんですよ(笑)。まあ大丈夫でしょ。でも、海外でやりたいってことは主張していこうと思ってます。主張しないとね、「とりあえず英語科にしといたら」ってまた言われるんで(笑)。 とりあえず英語科になった経緯はその1の記事へ。
高校時代と同じ失敗を繰り返さないように、ですね。
外国語学部って個性強い人多いじゃないですか。あのなかにいると“自分ってこんな人間なんです”っていうのをどんどん発信していかないと埋もれちゃうし、それは嫌だなと思って。
仕事のなかで大学時代の経験が生きているな、と感じるときってありますか。
英語はこれからですね。新しいものに挑戦してみようって思うようになったのは、外国語学部の経験から生きてるのかなと思います。外国語学部って新しいものに挑戦することに抵抗がない人が多いですよね。そんななかで“僕もこういうのやってみたい”って言えるようになったと思います。それこそ外語出て建築行こうなんて人ほとんどいないですよ。会社でも“外国語学部ってもっと金融とか商社とかじゃないん、なんで来たん?”って言われます(笑)。
外語のなかで自分自身ってどんな学生だったと思いますか。
かなりまじめ路線でいってたつもりです。まじめにちゃんと勉強して、ちゃんと就職して。世の中のスタンダードな流れに乗っていけば間違いないって思ってたんですけど。…なんやろな、それが外国語学部のあのなかにいるとなんか恥ずかしいことのように思えてくるんですよね。普通に高校出て、普通に大学4年で出て、普通の会社に就職するっていう、まあいわゆる普通の流れなんですけど、これが間違ってる気がしてくる。
そうですよね。わかります。
でもその空気はすごい、大好きで。自分もそうなりたいなと思ってました。4年で卒業してることに引け目感じるというか。普通逆ですよね?留年とかしてたら引け目感じるのに、外語では大学に長くいるほど武勇伝みたいな!
最長10年在学できるから大丈夫、というやつですね。
そうそう、そういう“まさに外語生”みたいな生き方にも憧れますけど、今はそうじゃない、自分なりの道を歩んで良かったなって思ってます(笑)。良い意味で“人は人、自分は自分”っていうのも外語生の魅力ですよね。行動の一つひとつにちゃんと明確な理由があるから、周りに流されない。僕も外国語学部のそういうところに鍛えられました。
これからの目標はなんですか?
海外でインフラに関わることですね。橋を1本作ったとか、道路1本作ったからといって貧困の問題が全部解決するわけじゃないんですけど、少なくとも良い方向に繋がっていけばいいなあと思っています。昔テレビでやってたんですけど、学校をひとつ建てたおかげで、給食が出るから子どもが学校に行くようになって、いざというときの避難場所もできて、子どもが教育を受けられる場所には人がたくさん集まるから、市場ができて、商業が成り立って…っていう、建物ひとつから街や環境が変わることがあるっていうのを知ったんです。だから、―それは途上国に関わらずですけど―海外で何かひとつ“やったったでー!”って思えるような建物を建てたいと思います。高校時代に講演を聞いて衝撃を受けたあのころ思っていたことを、迂回して迂回して、今やっとできるかもしれない、というところまで来ていると思います。

変わらない外大文化

今の外国語学部生に伝えたいことは何ですか?
インタビュー風景 やりたいと思ったことをやったらいいと思います。もっと主張してほしいですね。僕の勝手なイメージですけど、阪大と合併したことで学生が大人しくなっちゃったんじゃないかなと。こんな夢があるとか、それこそ“南米で貧困問題に取り組みたい”っていうことを恥ずかしいと思ったらダメなんですよ。自分のやりたいことをちゃんと主張してほしい。そのために大学に10年いようが、それは褒められたことですよ。
そうですね。
僕は高校2年生のときに、「いや、先生違うんですよ。スペイン語専攻って書いた理由は、やりたいことがあるからなんですよ」って言えなくて、なんとなく流されて学科を変えてしまったっていう経験があるんで、なおさらです。外国語学部っていうのは、自分のやりたいことをすごい主張できる空気があると思います。ぶっとんでること大歓迎みたいな。そういう場所ってなかなかないと思うし、そういう大学に入ったことはチャンスやと思う。こんなことやってみたいっていうアイデアをどんどん主張してほしいですね。
外大から阪大に変わっても、その風土は残ってるんですね。
僕らのときは残ってました。まだ先輩はみんな外大生やったし。今はどうなってるんやろってすごい思います。でもこの間、仕事カフェ(*3)にきてた先輩に「外大生が大人しくなったら嫌ですね」って話したら、「いや、まあならないでしょ」って。なんでですかって聞いたら、「外大は今までも時代の波に流されながら、高槻に行って、上本町に戻ったと思ったら箕面に行って、他の大学と一緒にされて…って流浪してきた大学。今度は船場に行くことになったけど、それでも僕らがいた時点では、外大の一番底にある文化みたいなもの、視線が常に外を向いている文化っていうものは変わらずにあったから、たぶんこれからも変わらんでしょ」って。
*3 咲耶会主催の在学生向け仕事紹介イベント。卒業生が集まって、学生とゆっくり話をする会です。
嬉しくなりますね。
「昔、本で読んだ表現に『時代の風に流されて、樹の枝葉が右や左に揺れるけど、根っこの部分はしっかり変わらない』っていうのがあって、外大はそういう大学やと思う」って。
ええこと言いますね。
これ言ったの、仕事カフェにきてた先輩ですよ、僕じゃないです(笑)。でもこれ聞いて「たしかに」って思って。キャンパスも学部の形態も変わってきた大学ですけど、昔から続いてるあの外大の文化っていうのは、僕らがいたときもしっかり残ってました。これからも大丈夫やと思います。

AFTER

シカゴ空撮 インタビュー当時は神戸の現場事務員として勤務していた岩井さん。
2016年4月より、海外転勤となったそうです。駐在期間は未定(およそ2年?)。
現在はアメリカ(イリノイ州・シカゴ)で現地法人の総務・経理・人事を担当し、新規赴任者のVISA申請、受け入れ手続き、会社の備品管理や月々の支払い、現地の日本人協会とのお付き合い、さらには情報セキュリティ(会社の社外秘情報を流出リスクをどう減らすか)といったテーマに取り組んでいるとのことです。

次回更新は6月中旬です!

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